やっていることにはすべて理由がある
取材・文 | 久保田千史 | 2012年12月
――25周年おめでとうございます。この時間で25年の歳月を語るのは難しいかと思いますが、現在に至るまでの道程をお聞かせください。
「はい。まず始めたときのことからですよね。MASONNAとして録音を始めたのは1987年なんですけど、その前にバンドをやっていたんですよ。地元の友達らと田舎町でパンク・バンドを」
――どんなスタイルのバンドだったのですか?
「その頃、自分が16、7歳くらいのときっていうのは、THE STALINがメジャー・デビューしたり、あとまあ “インディーズ”がすごく盛り上がってきていたんですね。スターリンのギターのタムがADK Recordsを始めたり。『Outsider』っていうコンピレーションとかもその頃に手に入れたんかな、ハードコア・パンクも盛り上がってきて、AAの『ハードコア不法集会』(『Hardcore Unlawful Assembly』)、メジャーからは『Great Punk Hits』とか出て予約して買ったな。DISCHARGEやDISORDER、CHAOS U.K.なんかは日本盤も出てたから田舎のレコード屋でも買えたし、G.B.H.も来日したり。あとポジティヴ・パンクね。SEX GANG CHILDRENとか、そういうのも出てきて。リアルタイムでそこらへんを聴いていったから、もうアンダーグラウンドなもんしか買わなくなってた。初めにやってたパンク・バンドは、まあスターリンとかADKから出てたバンドの影響を受けて始めたものだったんですけど」
――パートは?
「ヴォーカルですね」
――その頃の音源は残っていたりするのでしょうか。
「はい。MCR COMPANYから出していて」
――そうなんですか!?
「MCR COMPANYって、当時は地元周辺のバンドしか出してなかったんですよ。FUCK GEEZを中心にね。僕がやっていたのはTHE SADISTっていうバンドだったんですけど」
――あ~、そうだったんですね。
「あまり公には言ってなかったんですけど(笑)。THE SADISTでライヴ・デビューしたのが1984年なんですよね。だからもうすぐ30周年ですね。編集CDを作ろうかっていう話も出てきて、当時のデモテープ的なものも見つけて聴いていたんだけど、サウンドの変化がその頃の興味の移り変わりとわかりやすくリンクしていましたね。ハードコア的になったり、サイキックなポジパンみたいな曲になったり。解散直前に録った未発表のなんかはSEX GANG CHILDRENの影響がモロだった」
――THE SADISTでの活動はどれくらい続いたのでしょうか。
「THE SADISTはメンバーがみんな高校生とかやったんで、卒業したら一旦終わっちゃうんですよね。まあ京都でも日本海側のほうの田舎やったんで、卒業したら地元を離れて大学に行ったり、就職したりで。同時に仲間の間でもインディーズのパンク・ブームみたいなのが落ち着いてきてしまって。今でもパンクは大好きなんですけど、その後あたりから実験的なものにどんどんのめり込んでいくんですよ。ノイズ、インダストリアルやジャンクなんかを聴き始めて。最初はまあ、まだサイズが小さかった頃の『FOOL'S MATE』にね、そういう記事が載っていて。広告があったノイズ専門店みたいなところで通販していたんですね」
――その当時の“ノイズ”というと、どんな感じだったのでしょうか。
「1980年代の海外のノイズっていうか。だから、自分が聴いていた感じで言うとNURSE WITH WOUNDとか。ETANT DONNESも好きやったな。ハーシュなものより、ストレンジな感じのほうが好きだったんですよ。ヘンな編集とか、意外性のあるカットアップとか。まあNURSE WITH WOUNDが正にそうなんですけど」
――ちょっとサイケデリックな感じですよね。
「そうですね、初期のNURSE WITH WOUNDはサイケデリック的ですよね。でも4枚目以降の独特のコラージュ感を確立させてからのほうが影響を受けたんですけどね。最初の3枚は垂れ流している感があるけど、その後は展開に予想がつかないというか、凄まじいオリジナリティで新鮮でしたね。そういうものをいろいろ聴いていた頃にハードコアのめちゃめちゃ速いのが出てきたんだったかな」
――グラインドコアということですか。
「うん、まあSxOxBとかね。彼らが出てきたのはもうちょっと前だったとは思うんですけど。その感覚でノイズをやりたいって思ったんですよ。速いの。バンドが解散したときに、メンバーで練習すんのとか面倒臭いなって思っていて(笑)。バンドのエネルギーって、メンバー1人1人の個性やエネルギーが合体してすごいパワーが出るんだけど、自分の個性だけを増幅してそのパワーを出すというのかなあ。1人やったら誰にも文句言われへんし、練習とか何もせんでいいし、意見も聞かなくていいし(笑)。スタイル的には、SxOxBとかNAPALM DEATHみたいなグラインドの速い感じを、楽器もメンバーも曲もなしでやるっていう(笑)」
――曲はあるじゃないですか(笑)。
「再現できない曲じゃないですか(笑)。そういう、常識的なものを一切払いのける感じで」
――その思考に至るきっかけみたいなものはあったのでしょうか。
「まあやっぱり、人と違ったことがやりたかったんですよ。自分が聴きたい音を追求するっていうのは初めからあるんで。たぶんMASONNAの前にもノイズっぽいことはやってたと思うんですよ。真似事みたいな感じで」
――バンドをやられていたときにですか?
「そうそう。バンドの終わりかけの頃かな。リズムボックスが入ってグシャグシャっとしたのを、4チャンネルのMTRで録ったりしてやってたな。2本くらいカセット作ったと思うんですよ。バンドで会った人に渡したりしてた。そのときはまだ、ちょっと実験的なことをやってみよう、くらいの気持ちだったんですけど」
――当時、すでにMerzbowやINCAPACITANTSなどは活動されていたと思うのですが、影響を受けたりはしましたか?
「影響的にはそうですね。ジャンルとしてノイズっていうことにはすごく拘っていたんですけど……。例えばSONIC YOUTHがノイズやって言われていたりしたじゃないですか。あれはバンドやからノイズじゃないっていうか。そういう拘りはあるんですけど、もっとパンクだっていう」
――パンク。所謂“ジャパノイズ”の中でも山崎さんは少し毛色が違う感じがするのは、そういう部分なんでしょうか。一絡げに呼ばれがちですけど……。
「まあそれは構わないんですけど(笑)。どうなんですかねえ」
――MerzbowやSOLMANIAなどはコンセプチュアルな感じがするんですけど、ライヴにも表れているようにMASONNAはもっと直情的というか。
「ああ……。でも、初めライヴはやっていなかったんですよ。最初の4年くらいは。例えばMB(Maurizio Bianchi)って、当時はライヴを絶対やらなくて、録音だけやっていう話だったんですよね。レコーディング・ユニットっていうか。そういう感じで、まあ田舎に住んでたし、ライヴをやるつもりはなかったんですよ。1st LP『Masonna vs Bananamara』(1989)や2ndアルバム(CD)の『Shinsen Na Clitoris』(1990)なんかはライヴをやっていなかった頃に出してますね。ちなみにこの2作はTHE SADISTのギターだった手島(美智雄)くんが始めたレーベルのVanilla Recordsから出してもらったんです」
――そうだったんですね。
「はい。それで1991、2年だったと思うんですけど、MONDE BRUITSの岩崎(昇平)さんから突然“企画やってるんですけど、出てもらえませんか?”って電話がかかてっきたんですよ。ライヴなんか1回もやったことないのに。彼は大阪にMerzbowやINCAPACITANTSを呼んだりして、(大阪・難波)BEARSとかで“NOISE FOREST”っていうノイズのライヴ企画をやっていたんですね。東西のネットワークを結ぶ感じで。どこで電話番号調べたのかな?って思ったら、僕がカセットを卸していたレコード屋の店員に電話番号を聞いたらしくて。何の面識もないのに(笑)」
――バンドをやっていた頃に顔は知っていた、みたいなこともなく?
「なしなし。ないです。いきなりだったんで、いやいや、みたいな感じだったんですよ。でもSOLMANIAも出るっていう話やって、一緒やったらやってもいいかなって思ったんですよ。デュオで。その頃ちょうど、全然別のところでSOLMANIAの大野(雅彦)さんと知り合うきっかけがあったから。結局そうこうしてるうちに話が決まって、SOLMANIA + MASONNAみたいな感じでやったのが最初のライヴ」
――SOLMANIAとはもっと以前から交流があったのかと思っていました。
「なかったですね。大野さんはそれまでに1回くらいしか会ったことがなくて。知り合ったきかっけも、なんかアートの人が……」
――アートの人?
「……思い出した。田村さんていう、ドロドロに溶かしたオブジェを作っている人で、大野さんの芸大時代からの友人だったんですけど。その人がコンタクトを取ってきたんですよ。何でやったかは忘れてしまって……個展をやるから音を使わせてくれとか、そんなんかな。1度大阪で会うことになって、そのときに大野さんの家に連れていかれたんですよね。ちらっと」
――それが初対面?
「うん。ほとんど喋らなかったけど」
――田村さんは音源を聴いてコンタクトを取ってこられたのですか?
「うん。レコードやカセットにコンタクト・アドレスを載せてたんで、手紙が来たんだったかな。彼の作品の写真と一緒に。まあそこからも繋がっているんですけど、それよりもやっぱり岩崎さんの存在のほうが大きかったですね。彼は残念なことに、2005年に突然、バイク事故で亡くなってしまったんですけど……。彼が電話をしてこなかったら、ライヴを今やっていなかったかもしれないです。そこから大阪でライヴをするようになって。C.C.C.C.なんかもMONDE BRUITS企画で一緒やったと思うんですけど。SOLMANIA + MASONNAの後に日野繭子さんと一緒に“マゾ繭子”とかやりましたね(笑)。その後本格的にMASONNAのソロでライヴを始めて。92年くらい」
――そんなに後になってからだったんですね。
「そうですね。いろいろ段階があったんですね。やっぱり初めはライヴを中心に考えていなかったので、今みたいなスタイルでもなくて。一番最初にMASONNA名義でやったライヴは、東京でやったと思うんですよ」
――えっ、そうなんですか?
「うん。新宿のシアターPOOっていうところで、C.C.C.C.の企画」
――そのときはどんなスタイルで?
「アコースティック・ギターにコンタクト・マイクを付けて、鳴らしながらホールの中に叫んで。まあディレイとかを咬ましていたんですけど、叫びながらだんだんギターを破壊していくっていう。音源でやっているようなことはライヴではできないと思ってたんで、逆に違うことしよう思っていて。そのときにインキャパの美川さんと初めて会ったのを覚えてますね。“録音していいですか?”って聞かれて、一番前でテレコを準備していたのを覚えてるけど(笑)」
――(笑)。レコーディング・プロジェクトとしてスタートしたということもありますけど、ライヴと録音ではやっぱり勝手が全然違いますよね。作り込みかたとか。
「違いますね。だって、レコーディングはいいところだけが使えるし、編集でなんとでもなりますからね。ノイズの出音も録音機材に直接ぶち込むのとアンプから出すのも全然違うのがわかったし。フィードバックを使うから同じにならないんです。それとあの絶叫やテンションがピークのままの状態をライヴで連続してやるのは無理だな、って思ってたんですよね。そうこうしているうちにライヴのお誘いも増えてきて、いろんなことが繋がってJOJO広重さんと出会ったり。それでAlchemyからのリリースとかも決まってくるんですよね。その頃、93年前半はたぶん、ライヴをしながらノイズで知り合った人の家に泊めてもらう生活が多かったと思うんですよ(笑)」
――特定の家に住まずに、ということですか?
「そうですね。カセットを作ってレコード屋に卸したり、買い取ってもらったりして、そのお金を旅費にして大阪とか、東京に行って。働かずにそういう生活をしていたと思うんですよ」
――ということは、けっこう売れていらっしゃったんですね。
「売れてましたね(笑)。でも人ん家やからね、タダだから。東京だとMerzbowの秋田(昌美)さんの家によく泊めてもらって。そのときにFLYING TESTICLE(Merzbow + MASONNA + Zev Asher)っていうユニットのレコーディングも秋田さんの部屋でしました。そのうち、大阪に住むことになって。94年やったかな。激動の数年間やったから、よく覚えてないけど」
――なぜ大阪に住まれることになったのですか?
「岩崎さんの企画でBEARSに出ている頃に、山本精一さんに出会ったんですよね。そのとき山本さんはBEARSのブッキングもやられていて。ほんで“山崎君、毎月何かノイズの企画やってよ”って言われて。その頃のノイズだけのライヴって、やってもたぶん10人も客来がなかったんですよ(笑)。10人以上来たらすごいな、みたいな感じやったんですよね。それなのに、土日とか取らせてくれるんですよ。それも何のノルマもなしで(笑)。“ええねん、ええねん”とか言って。山本さん、どういうアレなんやろ?って思ってましたけど」
――すごいですね。それだけ山本さんは先見の明があったということですよね。間違っていなかったわけですものね。
「そのときに間違っていなかったかどうかはわからないですけど(笑)。でもそんなんでやらせてくれて。言ってくれるから何も考えずにやってたんですよね。やりますわ~、みたいな感じで。だったらもうBEARSの近くに引っ越そう思って。引っ越しも岩崎さんの車で手伝ってもらったな。ほんとに世話になってた」
――なるほど。そこまで音楽、というかノイズ一筋だったんですね。ほかに興味が湧いてくるようなことはなかったのですか?
「なかったですね。でもまあ大阪に住んだら家賃も払わなきゃいけないから、Alchemyで使ってもらって。それで毎月BEARSでライヴをするようになったんですね」
――その頃に現在のMASONNAスタイルを編み出したのですね。
「そうですね。初めはまだ音源とは全く違う感じでやるのが何回か続いてたんですよ。ハイハット振り回したり、ハーモニカにコンタクトマイク付けてやったり。こないだYouTubeを観ていたらそういうのも上がってた(笑)」
――(笑)。ご自身の昔の姿が、そうしてYouTubeにアップされているというのはどういう気分なんですか?
「う~ん。最近なんかヒドいですよ。ライヴした次の日とかにもう上がってるんですよね。どうなんだろうね、あれね。あの、昔下北沢でワンマンやった時って来てないですか?」
――Shelter(東京・下北沢)ですよね。
「そうそう。ゆらゆら帝国とBorisにアンプ借りてやったんですけど。OrangeとAmpegのアンプをバーンとシンメトリーに置いて積み上げて。あのときBorisのスタッフが撮っていて、編集してリリースしたいって言っていたんですけど、観たら自分のパフォーマンスが気に入らんくてボツになったんですよね。久しぶりに観たら良いかもわからないですけど(笑)。まあ映像で観られるんは作品として残すのにすごく拘りがあるんで。だから、勝手にYouTubeに上がってるのはなんかもう別もんの感覚だけど。自分の手は掛けてないから」
――そういうものに憤ったりしませんか?
「(笑)。どうなんですかねえ……。あれって、苦情みたいなの書いたら削除してもらえるの?」
――してもらえますよ。
「そうなんですね……どうなんですかね……」
――ノイズ界隈って昔から、好きな人はライヴを録音して帰るじゃないですか、カルチャー的に。バイノーラルで録ったり(笑)。
「ああ(笑)」
――そういうものの延長線上と考えるのとは、またちょっと違いますよね。
「ねえ。でもそういう時代なんですよね、今はね。音源もそうやもんね。YouTubeに音源だけのやつもアップされてるし」
――そうですね……。すみません、脱線してしまって。
「うん。まあ、そういういろんなスタイルでやっているうちに、やっぱりリリース音源の感じに近づけようかな、と思って。ロウな感じでもそれはそれでいいかなって。だんだん“MASONNA美学”みたいなものが出てきて。やっぱりライヴやるからには他の人がやっていない見た目のスタイルをやらないかんと思っていたんですね。テーブルに機材を並べてやる人はいるでしょう。インキャパとかMerzbowとか。ギターでやる人もおるでしょう」
――SOLMANIAですね。
「そうそう。NULLさんとかね。あと、当時ノイズといえば非常階段やハナタラシのスキャンダラスなパフォーマンスがありましたけど。そのどれにも当てはまらないのがいいな、ということで。テーブルは使わない、楽器を使わない、1人でやる、それでヴォーカルがメイン。絶対マイクスタンドを立てて、足元にエフェクター。テーブルやと、まあちょっと動きはあってもそんなに動けれへんし、ギターも持って動いてるんで制限されるし。もっと音と体の動きが連動したものがいいな、と思って、飴の缶にマイクを付けて振れば振るほど音が激しくなるようにして(笑)。それをワイヤレスで飛ばしてエフェクターでフィルターかけたりするんですけど。まあそれは下に置いておいて、振りながら自在にどこへでも行けるっていうか。そういうスタイルに」
――他のノイズ勢に比べると、フィジカル度が高いですよね。それはパンク / ハードコアを経由しているが故なのでしょうか。
「うん、それもあるし、観に行くんやったら、ヴィジュアルのインパクトが大きいほうがいいでしょ。逆にね、音はちゃんとできていないと思うんですよ、ライヴで(笑)」
――そんなことないですよ!
「いやいや、できてないんですよ(笑)、CDのようには。落ち着いてやったらもっと長い時間できるし、コントロールもできるっていう利点はあるんですけど、それを捨ててでも、ジャンプして飛び降りた瞬間に音が変わったりとか(笑)、そういうほうを優先したかったんですよ。自分も観たらそういうほうがおもしろいな、って思って」
――それは“楽しさ”と受け止めてよいのでしょうか。例えばMerzbowだったら、システムに対する憎悪がパフォーマンスに込められていますよね。
「そんなん全然考えてないです(笑)。なんやろな、“楽しさ”って言うと違うかもしれないですけどね。どうなんやろね。“ショウ”っていうかな。音だけ聴くならCDで十分かな、と思うんですよ。若干の動きでもライヴ感はあるかもしれないですけど、捨て身でやる、っていう感じとは違うと思うんですよ。観ていて」
――MASONNAのライヴは文字通り捨て身ですよね。
「今よりは捨て身でしたね、20代の頃は(笑)。当時はヒドかったですね」
――そのスタイルで初めてパフォーマンスをされたときの反応は、いかがでしたか?
「う~ん、自分ではわからないから……(笑)。結局自分のことは自分で生で観ていないじゃないですか。いくらビデオ撮ったやつを後で観ても、違うと思うんですよね。その場にいるのとは。幽体離脱して観てみたいんですけどね(笑)」
――そうですね(笑)。では当時、山崎さんから観て圧倒されるパフォーマンスをされていたかたというと?
「あ~、どうなんだろう。ライヴ自体あまり観に行ったことがなかったんですよね。ライヴハウスもほぼ行ったことがなくて。どうなんだろうなあ……。ライヴあまり観に行かない派なんで、わからないですね(笑)」
――そうなんですか。なぜあまりライヴに行かないのでしょう。
「う~ん、最初はライヴハウスの近くに住んでいなかったからじゃないですかね。あとはまあ、なんでだろうなあ……。なんか、決められた時間に行くのが面倒臭いんちゃう?そういうのがあるのかな。すごく期待しているんだけど、近づいてくるとだんだん面倒臭くなってきたりとか(笑)」
――なんとなくわかりますけど(笑)。今もあまり観に行かれないのですか?
「うん。でもCRAMPS観に行きたかったなあ」
――CRAMPSお好きなんですね。
「うん、好きなんですけどね。観に行けなくて。まあ、この話はヨシとしましょうよ(笑)」
――はい(笑)。そうしてMASONNAと言えばあのライヴ、というスタイルが確立されたわけですね。
「そうそう。いろいろあってああなったんですよ。一番よく聞かれるのは“何分やるんだ”とかそういうことなんですけど」
――短時間で終了するライヴは、半ば名物みたいになってしまっていますものね。
「うん。それもね、レコーディングのほうもだんだん進化していって、Alchemyから出した頃からかな、カットアップっていうか、編集技術が細かくなっていくんですよ。嫌な音を全部カットしているんです。ものすごい細かく編集して、無駄な部分をどんどん外していくっていうか。極端にそういう方向で作品を作っていくようになるんですね。だからライヴでも、長くやるとどうしてもテンションが弛む部分、ダラける部分が気に入らなくなってきちゃって。ものすごいスピード感を追求するようになっていくんですね。超高速の切り替えしで。ダラけた部分をナシにしていくと、短くなっちゃうんですよね。頭からトップスピード入って、落ちる前に終わっちゃう勢いで」
――いきなりトップスピードに入るのって、意識的に難しくないですか?
「大丈夫です。今はもう1、2、3のカウントで入れるんで。長くやろうと思ったら、イントロを付けたりしなきゃいけなくなるけど」
――そういう体裁を採ろうという気持ちはないんですよね。
「ないです。ライヴはワビサビとかじゃなくて、まあ、サビばかりっちゅうか(笑)。徹底してやりたいな、っていうことでやっているんですよね、今まで。年齢と共に体力は変わっていってると思うけど(笑)。超高速で頭から最後まで」
――イロモノ的に見られてしまう部分もありますよね。
「そうなんですよ。理論的にというか、ちゃんと理由があるんですよ。MASONNA美学みたいなもんが。やっていることにはすべて理由があるんだっていうこと。わざと長くやるとか、わざと短くやるとかじゃなくて、やりたいことをやるとそういう風になるっていうか。コンセプト的に絶対落ちたらあかんから。突っ走らないと」
――その高速感は先ほどもおっしゃっていたようにグラインドコアの成分なのでしょうか。
「たぶんそうですね」
――今でもグラインドコアは聴かれるのですか?
「今は聴かないですね(笑)。ハードコアは聞くけど。でもやっぱり、90年代は海外からものすごいたくさん手紙が来ましたね。まだメールがない頃ね。昔は手紙やったんで。日本でリリースされたものは輸出されてるし、海外のレーベルからも出しているから、コンタクト・アドレスで書いてあった家の住所に毎日のように手紙が来ていて。ほんでメキシコかどこかから手紙を送ってくれた人がめっちゃグラインド好きな人みたいで、“ドラムが聴こえないくらい速かった!”とか書いてあったりして(笑)」
――それはなんだか嬉しい感想ですね(笑)。
「うん。おもしろいなあ、って思った(笑)。そういう風に聴いてくれてるんだなあ、って。もしかしたら1人でやっているって思っていなかったりするかもしれないですよね」
――90年代中盤から海外のリリースがどんどん増えていきますが、それもそういったやり取りの中から生まれたものなのですか?
「うん、そうですね」
――その頃から作品のテイストが少し変わってきますよね。
「そうですね、作品的には途中からサイケデリックの要素が増えてきて。普段はサイケデリックばかり聴いてたんで。MASONNAをやり始めるとノイズのレコードはあまり買わなくなっちゃって。そういうテイストはジャケットなんかにも入ってきてると思うんですけど」
――サイケデリックというと、どのあたりのものだったのですか?
「60、70年代ですね。昔のね。ファッションとかも含めて。ショップもやっていて、サイケのレコードとかも仕入れたりしてたんで、アシッド感みたいなものを入れることが多かったですね。例えばHUNGERっていうサイケデリックのバンドだと、ヴォーカルの語尾にディレイをかけたりするんですよ。そういうのに影響を受けてると思うんですけど。MASONNAも語尾にディレイが残してみたり」
――サイケデリック方面に行くきっかけみたいなものがあったのでしょうか。
「ひとつの出会いがあったなあ。ノイズの後に、ジャンク・ブームみたいなものがあったんですよね。BUTTHOLE SURFERSとか、PUSSY GALOREとかね。BUTTHOLE SURFERSはかなりサイケデリックなテイストだったから、それも関係してると思うんですけど、アメリカのアンダーグラウンドなジャンクをすごく聴いていて。大阪に、それもまた『FOOL'S MATE』の広告で知ったんやったと思うんですけど(笑)、大阪にDavid Hopkinsさんていう人がやってる通販屋があったんですよ。Davidさんはアメリカ人なんですけど、日本の大学で講師をやっている人で。夏休みにアメリカに帰ったら、現地で買ってくるんですよね。アンダーグラウンドなジャンクを。それを持ち帰って通販カタログを作って、売っていたんですよ。学校の先生が。その人のところでけっこう通販をしていて、まあ電話受付やったんで電話で喋ったり(笑)。それで何回か利用していると、オマケのレコードをくれるんですよね。その中に、THE NUGGETSっていうガレージとか、THE MUSIC MACHINEやTHE SEEDSなんかの60年代の基本的なサイケデリックのバンドが入っているコンピレーションなんかがあって。そういうのを聴いたんと、BUTTHOLE SURFERSの流れから興味が湧いたんかな。それとまあ、カルチャー的なものも好きになって。ベルボトムとか、柄シャツとか(笑)。全体的に好きになったんですよね。ライヴでベルボトム絶対履くし。まあ普段もやけど(笑)。あと色使いとか」
――グレースケール使いの多いパンク / ハードコアから、そこに至るというのはおもしろいですよね。
「いろいろ変わってきますよね。パンクがあって、ハードコアとかポジパンがあって、『FOOL'S MATE』を読み出して、Trans Recordsから出てるものを聴いたり。YBO²好きやから実験的なロックも気になって、ちょっとプログレとかも聴くようになって。だんだん聴くものが古くなっていったんですよね。でも、東京にあるModern Musicにしても、NEdSとかにしても、ノイズも扱っているけどサイケデリックも扱っているじゃないですか。やっぱり繋がっている感じがしませんか?どっちもアンダーグラウンドな、一般的な感じじゃないからかもわからないですけど」
――そうですね。60、70年代の録音の空気感というか、そういうものはかなり通じている感じがしますよね。
「そうそうそう。右のスピーカーからヴォーカルだけ出て、逆からは楽器だけとか、めっちゃかっこいいですけどね。何と言うか、当時の空気が感じられるものが好きなんですよね」
――当時の音って、現在では再現不可能ですもんね。今全く同じ機材で同じように録音したとしても。
「そう。今同じようなことやっても違うんですよね。空気が入ってないんですよね、当時の気配が」
――MASONNAは、その“空気”を頭の中で凝縮したものを放出している感じがしますね。
「MASONNAは、グラインドコアからのスピードと絶叫を使った速くてうるさいやつ、レコーディング作品にはNURSE WITH WOUNDやETANT DONNESから影響受けた極端な切ろ返し編集なんかが基にあって、そこにそういう要素を2割ずつくらい足していってるんですよ。『Freak-Out Electrolyze』の頃は電子音を入れてみたり。電子音が好きになって、アナログ・シンセサイザーに凝り出したんですね」
――SPACE MACHINEに繋がっていく感じの。
「そう。その頃はまだ全然SPACE MACHINEはやっていなかったけど。秋田さんの家に泊まりに行ったときにね、やっぱりEMSとかあって、触らせてもらってすごくいいな、と思って。見た目もいいですしね。70年代のデザインだし。70年代のもの好きなんで。後は、その頃住んでた花園町の家の前にイズミヤっていう、大阪では有名な大きいスーパーの本店があったんですけど(笑)、そこのレジがね、旧式で、電子音が出たんですよ。プッシュした時とか、すごいかっこいい、古臭い音が。なんかそれにピンときて。電子音のみがかっこいい!って思ったんですね(笑)。それから電子音に敏感になって。夜中に宇宙戦艦ヤマトの再放送とかしていると、電子音が入ってくるわけじゃないですか。宇宙空間の音、ヤマトの中の音とか、エレベーターの音、ワープの音とかね。それもめっちゃかっこいい!って思っていて」
――なるほど。ヤマトのお話が出てきましたが、アニメや特撮からの影響ってあったりしますか?
「あ~、あるんですよね。やっぱりね、子供の頃は『仮面ライダーが』大好きで。2号ライダーに似てるってよく言われてた(笑)」
――そうそう、MASONNAって仮面ライダー感があると思っていたんです。
「うん。2号ライダー(笑)。あとやっぱり70年代じゃないですか、ファッション的にも。変身する前とか」
――ライヴ中、そういうヒロイックな心境になったりすることはありますか?
「それはないなあ(笑)。何も考えてないですね。やっぱりライヴ中はロックですね。パンクっちゅうか。まあ2000年前後かな、電子音をMASONNAに加えたりしてたんですけど、その頃に劇的な問題が発生してしまうんですよね……」
――何が起きたのでしょう。
「99年か2000年くらいに、腰を痛めてしまうんですよ」
――それは、捨て身のライヴのせいだったのでしょうか。
「う~ん、どうなんかなあ。月に1、2本はライヴをやっていたんですけどね。腰が痛くて立てなくなって病院に行ったら、けっこう安静に、みたいな感じになったんで、一時ライヴ活動休止にしたんですけどね。そのときにSPACE MACHINEを始めて。動かずにライヴができるし。今度はMASONNAと全く反対で、無機質で完全に汗をかかないライヴ。音だけに集中できるから、興味のあった電子音だけで。宇宙音ていうか」
――MASONNAをそういった方向にシフトする、という道はなぜ選ばれなかったのですか?
「MASONNAはもう、核がMASONNAの音なんで、それ以上変えられなかったんですよね。違うものにはできないんですよ。部分的に混ぜるのはオッケーなんだけど。スタイルをガラリと変えることはできないし、だったら切り離してやろうっていうことで」
――ではちょうどいいときに、と言ったらアレですけど、電子音と出会っていたわけですね。
「そうそう(笑)。とりあえずアナログ・シンセとか、機材も買ってあったしね。MASONNAに電子音を混ぜる感じっていうのは『Vestal Spacy Ritual』でもう完結してはいるんですけど、その後にたぶん腰を痛めたんですね。でも好きな電子音だけのがやりたかったんで、ちょうどよかったと言えばよかったですよ。その前にCHRISTINE 23 ONNAも始めていたし。音楽的なものを全部捨ててMASONNAやったじゃないですか。この頃は、そこからちょっと音楽的なことをやりたくなったんですよね。CHRISTINEの1枚目はまだアヴァンギャルドな感じだけど」
――それで(ANGEL'IN HEAVY SYRUPの戸田房尾さんと)お2人で。
「うん。ちゃんと(房尾さんの)ファズ・ギターと、自分のシンセが入っていて、ちょっと音楽的な感じ。4人もメンバーいらんし、まあ2人くらいやったらいいかな、と思って(笑)。リハビリ的な感じですかね。サイケデリックのテイストも楽曲的にMASONNAではできへん音、っていうところで。しかもだんだんグルーヴィな感じになっていって。こっちの人(房尾さん)がサントラをすごく買っていて。60年代、70年代の」
――またディープですね。
「うん(笑)。それをちょっと聴いていたら、こんなんできへんかな、みたいになってきて。リズムトラックはサンプリングでループさせて、その上に自分らの演奏を載せて、っていうスタイルができてきたんですよね。それで2枚ほど作ったんですけど」
――CHRISTINE 23 ONNAやSPACE MACHINEを始められたことが、その後の『Shock Rock』にも反映されている気がしているんですよね。
「ああ。そうですよね、分裂したかもしれないです。だから『Shock Rock』にはもう電子音とか入ってないんですよね。マイブーム的な追加要素がなくなって、初期の飾りのない、ヴォーカルとノイズだけで突っ走る感じに戻ってるんですよ。『Shock Rock』のときはMASONNA、CHRISTINE 23 ONNA、SPACE MACHINEで3枚出したんですよね」
――15周年記念の3作ですよね。
「そうそう。そのときに、MASONNAの要素から外れた電子音がSPACE MACHINE、サイケデリックで音楽的な要素がCHRISTINE 23 ONNA、って分裂したんですね」
――全部に踏ん切りを付けた感じで。
「うん。そうですね」
――MASONNAとしては、『Shock Rock』以降全くリリースがないですよね。
「うん、出てない。それには……2つの問題がありますね。1つは、次に作りたい音源があまりなかったんですよね。いつもはほら、次はこういう感じにしたいな、っていうのがあったんですけど。カットアップを細かくしたり、電子音混ぜたり、サイケデリックの要素入れたり、次にやりたいこと、自分の聴きたいものを追求しながらやってたんですけど、ここ『Shock Rock』で原点に戻って、とりあえず完結しちゃってたんかな。音源を作るっていうところでは。ライヴ活動は復活したんですけど、それでやっぱりライヴのほうがいいな、って思ったこともあるかな。2つ目は、引っ越したんですよ(笑)。新しく住むことになったところが、1フロアにけっこう人が住んでいたので。全部宅録やったんで、ちょっとこれは初めからキビしいな、とか思って(笑)。前のマンションは全く苦情が来なかったんでよかったんですけど。まあキチガイが住んでいると思われているかもしれないですけどね(笑)。そういうのもあったり。でもまあ、新作を作りたい意欲がなくなっていたんですよね。その替わりに、バンド活動が始まるんですよ」
――ACID EATERのことですか?
「うん。本格的にメンバーを入れて。ちゃんとした曲で、歌を歌うっていうスタイル。終始ファズギターがビリビリ鳴りまくって、チープなオルガンがガンガン入っていて、っていうのが周りにいなかったんで。ファズ・パンクっていうか」
――頑なにメンバーを拒否していたのに、どうしてそうなったのでしょう(笑)。
「そう、拒否していたのに(笑)。CHRISTINE 23 ONNAで、サポートメンバーを入れてライヴをやり始めていたんです。その頃はまだ非ロック的な部分はあったんですけど、ライヴをやってるうちに、ライヴ・バンドをまたやりたいって思うようになってきて」
――楽しくなってきたんですか?
「うん、楽しくなってきた(笑)。戻って来たんですかね、10代の頃に。本当に、完全に常識的なことをやりたかったっていうか。それで、MASONNA、ACID EATERでライヴ活動をやって。SPACE MACHINEは3枚出してそこでけっこう完結しちゃった。ライヴはやっぱり動きがないのはつまらんな、ってなっちゃって」
――では、今はACID EATERメインという感じなんですか?
「今はやってないです(笑)。メンバーがちょっとバラバラになってしまって、活動ができていない状態ですね。だから今はMASONNAをときどきやるくらいで」
――なるほど。一連の流れが全く違和感なく、すごく自然ですね。
「うん。自分のやりたいことをやってきてる。昔から、聴きたいから作るっていうのがあるからね。CHRISTINE 23 ONNAみたいに、遊びがかたちになって、っていうのもあるけど」
――自分の思うものをしっかり具体化できるというのはすごいことですよね。
「何かひとつ自分にハマると、そこから膨らまして追求できるんで」
――次はまたMASONNAの新作を予定されているということで。
「うん。今年25周年だったんで、絶対出そうと思って。Hello From The Gutterっていう信頼できるレーベルから7"を出したいっていうオファーが来て、25周年だから25曲入りの7"作りませんか?っていうアイディアが浮かんで。片面5分以内に12曲、13曲。シンセとかも入ってなくて、『Shock Rock』路線のもっと短い、もっとロウな感じかもしれないですね。ディレイとかは使ってるけど」
――『Shock Rock』で一度こう、完結したじゃないですか。
「レコーディング的にはねえ」
――次の作品では、音楽というよりもむしろパッケージが“やりたいこと”になったということなのでしょうか。
「ああ……。うん。初めの頃は、出したことのないフォーマットだから出してみたいっていうのもあったんですよね。10"を出したことないから出したいな、とか。5"出したりね。いろいろ出していって、リリースのワクワク感はちょっと減ったかな。最初はそういう楽しみがあったけど。新作は“7"アルバム”っていうのはやったことないな、っていうところで」
――『Shock Rock』以降、Alchemyの店舗がなくなってしまったり、音楽を取り巻く環境ではいろんなことが起こりましたよね。
「そうなんですよね」
――そんな中でパッケージは縮小傾向にあるわけですが、次のリリースはそういうところに対するアンチテーゼ的な部分もあるのでしょうか。
「ああ~。何にもないです。全くないですね(笑)。自分の聴きたいものを作っただけで」
――その次はどんな作品が作りたくなるんでしょうね。楽しみですね。
「うん。何かアイディアが浮かんだら作りたくなると思うんですけど……。ひとつ作りたいと思っているのは自分オムニバス。自分のやっているいろんなユニットを混ぜ混ぜにしたCD。それも、ちょっとミックスとか繋ぎを変えたりして。CHRISTINE 23 ONNAのグルーヴィな感じの途中でMASONNAがウワーっ!て始まったりとか」
――それはいいですねえ。山崎さんの全体像が見える感じで。
「うん。自分の素材を使って、ミックスCDみたいなものをそのうち1枚作ろうかなあと思っていて」
――なるほど。25年の出来事を振り返っていただいて、お話を伺っていると、すべてがすごく楽しそうに聞こえます。
「そうですね(笑)」
――でも辛いこともたくさんあったと思います。一番辛かったのはどんなときでしたか?
「う~ん、どうだろう(笑)。……やっぱり、腰を痛めてライヴができなくなったときは、アレですよねえ。終わる、って思ったのはありますよねえ。シンセ・ユニットがあったから、まだよかったけど」
――山崎さんは未来を想像するようなことはありますか?例えば30周年の時は何しているだろう?とか。
「全然考えないですよね(笑)」