那倉悦生「鏡を抜けて」 第2話


「あなたの幽霊は死んだ」

スーパーでギッたトロの刺身を母親にプレゼントした、涙を流して彼女は喜んだ。美味しいねえ、何年ぶりだろうねえ、お刺身なんてねえ。俺はタバコを吸っていた。排気ガスのようにまずいタバコだった。気の狂ってしまった弟は、黄色い衣服しか着ない。そしてこういうのだ、お兄さん、コウモリが飛びます。母親が弟について何か話すのを見たことがない。父親はダムに飛び込んだ。それは当然のことにも思える。父が弟について話している光景も記憶にない。2週間前、俺は、駅前繁華街をパトロールする自称自警団の連中に袋叩きにされた。ある女が嘘をついたのだ。俺はどうやら酒に混ぜ物をして女に飲ませ、レイプをしたらしい。無意識にすらないそんな欲望を、俺が行ったというのか。一日中家にこもっていた旨を伝えても、自警団気取りのチンピラ連中に話は通じるはずもない。曰く、次会ったらお前を殺す。翌週も俺は罪を犯したようだった。自警団のリーダーをバットでぶん殴り、重体にさせたらしい。これは俺がこの目で見たニュースだから間違いない。監視カメラにはバットを引きずりながらニヤニヤ笑いを浮かべた俺が写っていた。俺はじきに捕まるだろう。俺はタバコの火を消すと、母親に仕事に行ってくるとまた嘘をついて、駅前繁華街に向かった。そこではパジャマのような黄色い衣服を纏った弟が放置自転車を眺めている。コウモリが飛びます!コウモリが飛びます!俺は黙って頷いてやる。薄汚れた女のホームレスが一発500円のタチンボとして美しく屹立している。母と娘とが一言も会話を交わすことなく、喫茶店でコーヒーをすすっているのが見える。夕方だ、実際にコウモリが飛んでいる。ああ、コウモリが!弟は発狂などしていないということになる。自警団の連中は見当たらない。約束の時間に恋人は現れた。俺は全てのいきさつを伝え、別れを告げた。最後のキスはマリファナのフレーバーがした。ろくな女じゃあない。最後にもう一回だけヤリたいとも思ったが、すぐにどうでも良くなった。俺は黄色い衣服を脱ぎ捨てると全裸になり、金属バットを両手で握って、弟を殺した。俺と瓜二つのこの人間は死に際、恨みがましい口調で言った。お兄さん、あなたの幽霊は死んだよ!

挿画: MA」 2017 | キャンバスに油彩 1000mm x 1000mm 第1話 | 鏡を抜けて | 第3話