那倉悦生「鏡を抜けて」 第8話


「お前の家を燃やせ」

帰宅すると親父が死んでいた。この分では母親も死んでいることだろう。台所の中心にやはり倒れている。洗剤を飲んだらしく、青い顔で口から黄色いものを垂らしている。俺はキッチンペーパーでそれを拭ってやる。生きているような匂いがするが、じきになくなってしまうことだろう。親父は車の中で酸欠になっていた。俺が車に乗ろうとしたら、親父が運転席に座っているのが見えたが、一目で死者と察した。目がイっていたから。ドアを開けると、ものすごい熱気が俺の顔を撫でた、次いで何かしら呼吸を阻む気体の匂いが鼻腔を満たした。親父は全裸で、下半身を白黒のまだらに彩り、ケツの穴にピストルのおもちゃを挿入していた。それなりに勇敢な姿ではあった。車中では親父が生前愛してやまなかったストーンズの「山羊のスープ」が垂れ流しになっている。俺はこの親父だったものが半透明の大きなビニール袋に包まれることを想像し、道理がかなっていると感じた。大きくうなづくとドアを閉めた。ウイスキーを持って2階に上がる。俺の部屋の真ん中には、常に鉄くずの塊が落ちている。バネや薄い鉄板が絡まり合って、無意味な総合身体を生成している。それは実用されることのない抽象身体だ。滑らかな部分、肌理の粗い部分、螺旋状の部位。触ってみれば、心地よい冷たさを有していることがわかるだろう。親父のアメリカ土産が午前5時を伝える。それはとても小さなバイオリン型の時計で、不規則な間隔で時を刻む。時間によって異なるチープな電子音を奏でるのだが、今回は「聖者の行進」だ。今朝電車に乗ってみると、キチガイ討伐隊が独語症の中年男性を恫喝している最中だった。うるせーんだよ障害者!周りの迷惑考えろ!ニヤニヤしながら、消防団のユニフォームをまとった3人組が、座席に腰掛ける男性に罵声を浴びせる。老人とか子供とか、そういうのに優しくするのが優しさだろうが、家族とか恋人とか、それは当たり前だよ、優しくして当たり前だ、外国人とか老人とか、そうだろう、そういう人に優しくするのが優しさだろう!許さんぞ!男性はキチガイ討伐隊には耳を貸さず、優しさについての持論を展開し続ける。降りろてめえ、罰を与えてやる!3人組が男性の頭髪をひっつかんだので、俺はそいつの頭を殴った。そいつは意外そうな顔つきで振り返ると、なんだお前は!と言った。目がイっている。黒目が大きく広がって、伸びたり縮んだりしながら、非理性の襞を震わせている。俺は180ミリリットル入りのウイスキーの瓶を握りしめるとそいつの左目にフックを入れた。柔らかいような固いような感覚が拳に吸収される。パギリ、という音がした。別の男がスパナのようなものを懐から掴みだし、てめえ、殺すぞ!と叫んでいる。俺はウイスキーの小瓶をそいつの顔面に叩きつけると同時にみぞおちにむかってタックルし、マウントをとると脳天をグーで無限に殴り続けた。ふわあ、などとそいつは言っていたが、意味不明であった。もう一人は逃げていた。俺は中年男性を見た。腰かけたまま、外の景色を眺めていた。ふと何か悟ったような表情になるとこちらに視線を向け、なあ、兄さんは誰にだって優しくするよなあ!と言った。俺は、はい、と答えた。最寄りの駅がやってきたので、降りた。帰り道、名前の知らない樹木が枯れていた。てっぺんの細い枝の先端で、痩せ細った鳥が俺のことを中傷する歌を歌っていた。とりあえず音楽を聴こうと思い、YouTubeでマキャヴェリを流す。これから俺に吸収されるはずだった無数の書物が、主人を失った犬のような情けない顔で積まれるままになっている。一冊を手に取る。乳房は機械であり、それは口唇などの別の機械に接続される、といったようなことが書かれている。当然のことのように思えた。熱いアルコールを口唇と食道と胃とを通過させる。温度が俺に行き渡る。柔らかな情動が身体の底から湧いてくる。なんでもできる気がする。俺は隣の弟の部屋に入る。弟は何か表現しようのない電子音楽を制作している。セカンドモニターでは希崎ジェシカが懸命に腰を振るっている。俺は泣きながら勃起した。弟はすでに腸をはみ出させている。ピコリピコリとシンセが鳴る。かと思えば、とんでもないノイズが左のスピーカーから右のスピーカーへ、移動の自由を発揮する。ヤバいな、と弟の背中に話しかける。ガチでアツいっしょ、と弟はまんざらでもない様子だ。俺はゆっくりと、バネを引き、弟の首を包む。あー終わりかー、と弟は呟いた。俺は全てを済ますと母親の部屋から火をつけて回った。幾らかの金が俺の元にやってくるだろう。アンチ・オイディプス。お前の家を燃やせ。

挿画: MA」 2017 | キャンバスに油彩 1000mm x 1000mm 第7話 | 鏡を抜けて | 第1話