正当なメッセージのための “態度”
取材・文 | 久保田千史 | 2013年3月
通訳 | インパートメント 稲葉昌太, 下村雅美
main photo | ©Renato del Valle
――制作は2005年から開始したとのことですが、1998年の12″ ヴァイナル「Hard Disk Rock (Don’t Stop)」を下敷きにした楽曲が含まれていることを考えると、15年越しの作品ということになりますよね。長い年月が経過していますが、当初からのコンセプトは一貫しているのでしょうか。
「実際のところ、“Hard Disk Rock (Don’t Stop)”をはじめとする過去の作品を素材にした楽曲群が『HD』のために制作されたのは比較的遅かったのです。“Stop! (Imprerialist Pop)”に至っては曲の構想は数年前から持ってはいたものの、制作を始めたのは2012年ですから。レコーディングが1998年に始まったのだと思い込まれたのかもしれませんが、それは新しい音楽作品を作るという行為が、音が生まれた瞬間から始まっていると誰かが論じているからなのではないでしょうか。おもしろい考えですね!!! 制作がいつ始まったのかを明確にするのであれば、私はむしろ、このアルバムの着想そのものを得た時にすべきだと思います。だとすれば、それは2005年ですね。遅くとも2006年にはこの作品が仕上がっていなかった、というのがその理由です。当時、私に大幅な変化が訪れており、特に技術的な理由から2007年前後には制作を諦めざるを得ず、このアルバムの完成については待とう、という結論に落ち着きました。そのような顛末を経て、この作品が正しい時期と場所に届くに至ったのが2012年だったのです。ですから、明確に“コンセプト”と呼べるものがあった、と言うよりは、最初に生まれるべきムードや感覚などがあった、と言うべきでしょう」
――昨年Pete Namlookさんが亡くなられたこと、大変残念に思います。このアルバムをRather Interestingからリリースする予定もあったのでしょうか。
「実のところ、『HD』も、それが2007年に『Hard Disk Rock』と呼ばれていた当時も、Rather Interestingからリリースすることは考えていませんでした。もちろん、Peteはこのアルバムを気に入ってくれたと思いますし、私も彼に聴かせるのをとても楽しみにしていました。しかし彼は去年の11月に亡くなってしまい……。アルバムが完成したのはその1ヶ月後でした」
――SchmidtさんはHD(ハードディスク)とリアルの関係について度々言及されていますよね。15年の間に、Schmidtさんがかつて危惧されていたような状況の方が優勢になってしまっている感があります。このアルバムが仮に、誰かの所有するストレージに書き込まれ、一度も再生されることがないとしたら、どんな気分ですか?実際に起きるであろうことではありますが。
「コンピューターを非常に高いレべルで使いこなしている人々、例えば多くの芸術家やミュージシャンなどが、日常生活のツールとしてのコンピュータを発見したばかりの世間一般に対し、大きなアドヴァンテージを持っていると仮定しましょう。“iPhoneの世界”はまだ始まったばかりで、平均的なユーザーはあの小さな機械の中で“全て”を持つことがどういった意味を持つのか、まだ理解してはいません。片や私の多くのミュージシャン仲間たちは、この20年余りを通じて、コンピュータの虜になることが何を意味するのかを目撃してきました。ハードディスクという非常に脆い媒体の中に、リアルな、価値のある情報を保管するということは、対処に特別な注意を要する独特の状況です。例えば、個人的かつ文化的な“記憶”に関するすべてのテーマはそれに関連していて、そのデータへのアクセスがどれだけセキュアであるか、という疑問を生じさせますよね。また、ハードディスク上では、保管されているものはいつでもまとめて失われる場合があります。たとえそれが素晴らしい“仕事場”であっても、特別なケアと系統化が求められるのです。私は、現在の社会情勢では、現実世界をデジタル複製しても不安定になると認識しています。以前にも私が指摘したように、一部のハードコアなコンピュータ・ユーザーが既に気付いていることに、我々は未だ気付いていないのです。ハードディスクのデータ全て失ってしまった経験を経た人は皆、究極的にはそれがどれだけ非現実的なものであるかを実感させられます。それが“危険だ”とか“良くない”などど言うつもりはありませんが、最終的にはあなたに影響を及ぼす新しい状況を招くのですから、しっかりと意識しておくべき問題だと思います」
――1980年代のエレクトロニック・ポップ(まだエクスペリメンタルだった『Computer World』前後のKRAFTWERKを髣髴とさせます)をアップデートしたかの如き音楽性同様、「Empty」や「Stop (Imperialist Pop)」での主題もまた、80年代のトピックを現代に置き換えているように思います。これは意図的なものなのでしょうか。
「概して自分が何をやっているかについて非常に意識的ですし、自身の音楽の中に、自分では気付いていない要素が存在することは全くないと言えます。その意味では、あなたが『HD』で聴くものは全て意識的に産み出されたものですし、参照先やそのソースからの文化的要素が含まれていることに対しても自覚的です。しかしながら、全ての芸術において“不合理”で“ミステリアス”であることを内包しているのは、非常に重要であり、パワフルな要素だとも考えています。これは料理に例えると理解しやすいかもしれませんね。料理では、材料、例えばスパイスなどを意識的に使う必要がありますが、その産地までを知る必要はありません。その材料がレシピの中で“効果的か”どうかを知っていれば良いのです。『HD』に話を戻すと、確かに私は、例えばKRAFTWERKと自分の音楽との関係や出典には気付いていますし、彼らの音楽が特定のスタイルや歴史的 / 文化的な資料を代表するものだとも考えています。私たちはもはや、全てが同時に現在である、という時代に生きています。そして芸術面 / 様式面でそれが効果的である限りにおいて、“全て(全てのスタイル、全ての言語など)”が本来の文脈から独立しているとしても有効であるということを、私の仕事は反映しているのだと思います」
――ことに「Stop (Imperialist Pop)」は、実名がばんばん登場する、かなり攻撃的なリリックになっていますよね。逆に、Schmidtさんが嫌悪感を抱かない“ポップ”とは、どのようなものなのでしょうか。
「『HD』は明確に答を出してはいません……。そして、実のところ私も明確な答を持ち合わせていないのです。“ポップ”はたぶん50年前に比べると全く違うものになっていると思うのです。“Stop! (Imperialist Pop)”のような曲がきっかけで、答が出せれば良いのですが……。この曲が攻撃的なのは、私が現在の状況に満足しておらず、新たな状況への扉を開きたいと願っているからです。今の私の感覚で言うと、“ポップ”とはポスト資本主義のキラキラした表面の部分です。“有名な(Poplar = Pop)”という言葉本来の意味を反映する必要はなく、“大衆に(Masses)”与えられるものを意味します。ある意味で、現代における“ポップ”というものは、巨大な力 / 方法論を用いて人々に投げ込まれる情報の一形態、ということなのではないでしょうか。人々はそれから逃れられません。そして何度も反復され、様々な社会の階層に浸透した時、それは“ポップ”へと変化するのです。どんなに有名なブランドや商品も、多くの人がそれを選ぶからではなく、我々に他の選択肢がないから有名なのです。つまり、私がこの曲で呼ぶ特定の名前は“占有者”を指しています。あなたが昨今の“ポップ”の概念に照らして相応しいと思えば、それを他のどんな名前と代えても良いのです。これらの名前 / 人々はいつでも交換がききますし、ポスト資本主義の媒介手段として彼らが真にやりとりするのは、その価値観だけなのですから。例えば“Elvis”というメッセージは、彼が自分の曲に込めたメッセージではないのです。このことは全て忘れていただいて構いませんが、Elvisのメッセージとは“資本主義”なのです」
――Richie HawtinさんやRicardo Villalobosさん、Matthew Herbertさんなど、親交があるクリエイターにはポリティカルな意志を持って活動されている方が多いように思うのですが、Schmidtさんも音楽家として活動する上でそういった意志は必要だと考えていらっしゃいますか?
「基本的に私は“政治”を“汚れた”言葉だと思っているので、自分の関心事を“政治的”と表現するのかどうかは分かりません。私はどのような種類の政治も信じてはいないので、“社会的”という見方をしていただく方を好ましく思います。さて、あなたの質問に答えると、私はアーティスト、特にミュージシャンが政治的な意図を持つべきだとは考えていません。私の意見では、政治や、(政治がほのめかすような)“現在の出来事”に関連する“言葉”は、残念な事にアートをとても“陳腐な”ものにしています。音楽の偉大な力とは、その神秘的かつ不合理な方法の中で、結びつく / 理解し合う能力です。言葉を使って社会的ステイトメントを発表するのはおもしろいことですが、それをアーティストが顕著にすべきだとは思いません。実際、あなたが言及した楽曲や『HD』のレコーディングは、私が自身のステイトメントを発表した最初で最後のものです。その理由は先ほどの説明と関連していて、例えば“Stop! (Imperialist Pop)”は、私が選ぶ言葉のひとつひとつではなく、正当なメッセージのための“態度”として理解していただきたいのです。一貫性のあるメッセージを持つということが、今日ではどれだけ困難であるかを私は自覚しています。私の言葉は一貫性を狙ったものではなく、態度をより良く表現するためのものです。今、ミュージシャンにとって私が重要だと思うことは、“何か”を言う関心と勇気を持つことでしょう。特にこのような時代は挑発的なステイトメントを必要としています。私はこれらのステイトメントが“マーケティング”チームによって生み出された良いフレーズからではなく、本物の人間が本物の関心を持つことから生み出されなければならない、という意味で、“リアル”であることが重要だと思います」
――本作には、Señor Coconutでおなじみの顔ぶれやRaster-Notonの面々に加え、Jamie Lidellさんが参加していらっしゃいますね。Schmidtさんは彼の2008年作品(12″「Little Bit Of Feel Good」)でリミックスを手がけていらっしゃいますが、彼とは長いお付き合いなのでしょうか。LidellさんがSUPER_COLLIDER(Jamie Lidell + Cristian Vogel)で活動されていた頃からご存知でも不思議ではないとは思っているのですが……。
「私がJamieに初めて会ったのは2005年頃だと思いますが、正確には覚えていません。恐らくSUPER_COLLIDERのすぐ後で、彼が沢山の機材をステージ上に持ち込んで即興のソロライヴを始めた頃です。私たちは偶然、ヨーロッパのどこかをツアーする中で数回出会いました。彼はとても愉快で、言うまでもなく非常に素晴らしい才能を持った人物です。2008年に彼にリミックスを依頼され、その代わりに私は、当時思い描いていた曲のヴォーカルを彼に歌ってほしいと頼みました。“I Love U (Like I Love My Drum Machine)”のための最初のレコーディングは、2008年頃に行われたのです。しかし彼も私自身もレコーディングをする時間がなかったので、私の側では歌詞を幾度か変更しつつ、曲を占める大きな部分を再録音することにしました。そして年月が過ち、昨年『HD』を制作中、私はようやく新しい歌詞とハーモニー、メロディ、そしてベーシックなプログラミングを書き終え、Jamieに再び依頼する時がやってきたのです。彼のヴォーカルは『HD』制作において最後となるレコーディング・パートでした。彼のパフォーマンスや解釈は私が心の中に描いていた正にそのものだったので、私はあの曲にとても満足しています」
――昨年はKyokaさんの作品をリミックスされていましたが、彼女の音楽もまた独自の“ポップ”を持っているように思います。初めて彼女の作品を聴かれたときの感想は?
「彼女のトラックを初めて聴いた時は、そうですね、ある意味あなたが考えるような“ポップ”と関係のある、ある種の可愛らしさがあると思いました。しかしながら、当時の私はもっと“ラフ”で少しアグレッシヴなアイディアの方により興味を持ったのです。それが私が特定のトラックをリミックスしようと考えた理由です。Frank Bretschneiderがプロダクションを手掛けていたので、恐らく全体のヴァイブは“ポップ”が少し薄まっていて、当時はそれが良いと感じました」
――Schmidtさんの作品は、エクスペリメンタルな作風のものでも、常に“ポップ”が並走しているように感じます。Schmidtさんにとって”ポップ”とは何なのでしょう。
「私は『HD』が、“ポップ”への明白な答えを与えるのではなく、あなたと同じ質問を問うものだと考えています。私の“ポップ”に対する考えは先ほど解説致しましたが、付け加えるならば、大衆文化に欠かすことの出来ないものはアンダーグラウンドから育てられるものである、ということです。通常、“ポップ”なアイディアは、表面下で変わった人が変わったことをしようとするところから生まれてきます。私はその変わった人の1人で、私のアイディアもまた、ある時にはメインストリームやポップの規定へと吸い上げられました。その流れが減少または崩壊していないのであれば、私は現在の“ポップ”カルチャーに対して栄養の足りないもの、という印象を否めません。事実多くのこと、主に経済の変化(例えばほぼ全世界に広がる“危機”と呼ばれるもの)は、アンダーグラウンドとメインストリームのトランスミッタとしての役割を果たしていた“ミドル・グラウンド”の存在をなくしてしまいました。芸術的な風景はただのアンダーグランドとオーヴァーグラウンドへと縮小していったのです。問題は、すでに非常に退屈なものと成り果てているメインストリームの文化に、それがどう影響がするのかということです。私は“ポップ”と見做されているものが、本当に人々が欲しているものを反映しているとは思いませんし、想像以上に逃れられないものだと考えています。それに代わる選択肢が存在しないのです。唯一選択肢が残されているとすれば、それはコカコーラかペプシか、くらいのものです」
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