ENDON

ENDON

――“分かり易いもの”というのはどういった意味で?
宮部 「“シンプルに強度があるもの”ということですね」
那倉 「でもそれは僕らだけじゃなく、個人的な見解で言うと、アヴァンギャルドなバンドをやっている人一般のムードかな、っていう感じはするんですけどね、今。自分たちのユニークな部分として語るべきことだという感覚はないです。例えばノイズをやっている若い人たちでも、昔より全然“分かり易い”じゃないですか」

――たしかに。そうですね。
那倉 「フリー・ミュージックの下位概念としてのノイズではなく、“メタル”とか“ハードコア”といったものと並列なジャンルとしてのノイズ、っていう感覚だと思いますけど」
宮部 「“音楽”に聴こえる部分が多くなっているような気はします」
那倉 「コード進行のあるアンビエントに、大抵の音楽やっている人であれば“ここから”と思えるタイミングでハーシュ・ノイズが入って、カットアップになってコードとの関係性が終わる、とかね。僕が知り得る中では、日本でそのスタイルを最も長くやっているのはKazuma Kubotaですね。彼は近年“Post Harsh Noise”を標榜しています。そういう人たちがだいぶ増えてきたと思うんで。でも同じ人の2、3年前の作品を聴いてみると、そこまで構成がしっかりしてなかったりする。だから周りを見ていると、全体的な欲望なのかな、っていう気がするんですよね。ノイズがフリー・ジャズ的なものから離れてゆくというか。先輩方、特に有名なジャパノイズ先行世代の作風、フォーマットはフリー・ミュージックに非常に近かったわけですけど、僕らより歳下の世代は元々、例えば非常階段が好きでノイズを始めたっていう人たちじゃないんですよね。僕らと同世代のノイジシャンを観て始めたような人たちが多いから、ある意味コンテクストが一度断たれているんじゃないかな」

――“エンターテインメントとしての機能性”という点では、近年最たる例のひとつとして、ノイジシャンであるところのDominick Fernow(Hospital Productions / PRURIENT ほか)がVATICAN SHADOWとしてフロアを沸かせているという事実が浮かびます。
那倉 「すごくイージーに言ってしまえば、それもひとつです。“フロアを沸かせる”というのは。非常に近いかもしれないです」

ENDON

――でもENDONは、非常階段をはじめ、先行世代との共演も多いわけですよね。“ノイズ界隈”というか。
那倉 「そうですね……でもそうなりたいわけではないんです。例えば、付き合いのあるハードコア・パンクのバンドには、先輩がいるバンドも多いわけですけど、僕らの場合はそういう存在がいないんですよ。だから先ず商標の似ている“ジャパノイズの先輩方”全てと共演する必要があったんです。でも“ノイズ界隈”よりもっと地下に潜ると、グラインドもノイズも全部一緒になったような……“スカム”みたいなシーンがあるじゃないですか。ドラムとヴォーカルだけとか、玩具の銃とスクリームだけとか、そういうヘンな編成のバンドの吹き溜まり。僕らはそういうところから始まってるから。GLAYで言うところの“BOØWYになりたいからバンド始める”みたいな、そういう欲望は全くないわけですよ。始まりは“実験”だったということです。今も実験が一番尊いと思ってやってはいますね」

――そういう考えはメンバー全員で共有しているのでしょうか。
宮部 「そうですね。曲を書くにあたって、ひとつのジャンルがやりたいということはないですね。同時に流した複数の音楽の中から、一番好きな組み合わせを見つけよう、みたいな漠然としたところから始まるから。やっぱり実験が一番上にあると思います」
那倉 「実験といっても、所謂アカデミックな、難解なイメージの実験ではなくて、子供の遊びみたいなものですけどね。これとこれを足したら良いんじゃない?っていう。それをしっかり世に出せる形にまで昇華するというのが、一番シンプルで良いことだと信じてやっている感じです。音楽に没入はするんですけど、皮肉めいた視点でしか没入できないんですよ。没入し過ぎるとバンド全体でそのジャンルをやるハメになるし、アイロニカルであり過ぎるとバンドに没入出来ない。だから、アイロニカルな没入をいかに多くこなすか、というのがひとつ指標になっていますね。そうしないと止まっちゃうし、自分を飽きさせちゃう」

――音楽だけでなく、メンバー間の実験という面もあるのでしょうか。人間同士の組み合わせというか。
那倉 「そこは実験というよりも“説得と調整”ですよ。これ、反貧困ネットワークの湯浅(誠)さんの口癖らしいんですけど(笑)。実際このバンドには偏った人間と嫌な奴しかいないんで、厭味の応酬になりますよ。みんな出来ることが制限されてるから、やりたくないものはやりたくないじゃないですか。だからって独りがエラそうに“これだ!”って言い切ってやらせたくはない。騙し騙しやらせる。説得ってそういうことです。例えばドラマーに、叩いたことがないブラストを叩かせるとかね」
宮部 「ムード悪いですね」
那倉 「それから、過去の発言との一貫性を証拠に責め立ててくる奴とかいるじゃないですか。“言ってることが変わってる”みたいな。そういうのもナシ。僕たぶん、2008年頃は“ブラストはやらない”って言ってたんじゃないかな。それが“ブラストやらなきゃ話にならないでしょ”になっても、暗黙の了解で付き合っていかないとバンドが回らない。そうしないと“実験”の部分が薄れるし、“制服野郎”になっちゃうんですよ。例えばクラストのバンドだったら“それがクラストかどうか”みたいな議論をしそうですけど、全く無意味だと思うんですよ。そんなこと考えても仕方ない」

ENDON

――つまり、今やジャンルというものは“音楽的テクスチャ”でしかない、ということですね。
那倉 「ですね。テクスチャが並列で並べられていたら、それを根拠のないオリジナルのセンスで繋ぎ合わせるのが一番楽しいじゃないですか。普通に考えたらそうなるはずなんですよ。それは僕が世代的に、1982年生まれ、1995年中学入学のミクスチャー世代だからというのもあると思います。好きなものを好きなように繋げて、自分の快適な音楽空間を作るというのが命題だと思ってるんですよ。バンドが本来ヒエラルキーのない完全に並列な団体であることは確かで、実際誰がエラいとかいうこともないんですけど、そこは曲が“曲らしく”なったことによってだいぶ虚構の地殻変動が起きましたね。“曲を作る奴がエラい”っていうヒエラルキーが生じてきた気になる。ノイジシャンがいるから、思想的な軋轢が出てくるんですよね。“曲を作ってる奴は音楽ファシスト”みたいな言い方されますからね」

――音楽ファシスト!
那倉 「そうです。音楽ファシスト。団体芸であることに変わりはないんですけど、“ノイズバンド”というよりも“ノイズ / バンド”っていう感じなんですよね。だから僕は、対外的に“バックバンドだ”って言いますね。そうしないとバンドの主体性が分からなくなってしまうと思うんですよ。今は“ヴォーカルとバックバンド”というデザインを強調している過程です。所謂ノイズの思想性、ポストモダン的な“正解なんかない”というところを許容し過ぎると、よくあるノイズバンドになってしまう。“何でもあり”というアイディアは、迫力を表現するのには適していませんから。“正しい”選択をする自分を受け入れて、その選択によって表現に制限が生まれる状況も受け入れなきゃいけない。でも本当に良いアイディアをも持っているなら、そんなことで限界は感じないはずなんです。だから“正解があるかのように”作ってゆくことが、“新しいノイズ”の雰囲気だと思いますね。本当は正解なんてないんですけどね。それでも“正解はあるというゲーム”に没入するというか」