INOYAMALAND

INOYAMALAND, 1983

――へえ~!
井上 「音の出るものだったら何でもいい、できるだけプリミティヴなほうがなおいい、っていう感じだったんですよ。それが下地として2人の間にあるから。色々持ち寄って片っ端から使って、全く何も決めずに即興演奏を半日くらい平気でしてたよね」
山下 「一応記録として、カセットに録音してね。録音ボタンを押したらスタート、適当なところで停止ボタンを押したら終わり」
井上 「そうそう。片面が終わったら一休み、みたいなね」

――決まったものをコンポーズする感じではなかったんですね。
井上 「全然」
山下 「でもそういう風にやってると、何か出来てきますよね。メロディなり、リズムなり。それを具体化したい思いはあるから、意識を楽器があるところに持って帰る。そこでINOYAMALANDの曲が出来てきたわけ」

――INOYAMALANDって、童謡とまではいかないですけど、メロディがとてもシンプルで、チャイルディッシュと言っても差し支えないであろう印象があります。それは、原点の玩具の楽器が影響しているのでしょうか。
山下 「それもあるし、僕はZappaへの反動もあったから。Zappaの複雑な曲に対して、できるだけ単純な曲にしたかった。例えば“ド”と“レ”しか使わないとかね。そういうのは意識してた。La Monte Youngとか、まあTony Conradもそうなんだけど、1つの音しか使わなかったりするじゃない?その影響もあった。でもあれじゃあちょっと、“曲”にはならないから(笑)」
井上 「そうなんだよね(笑)」
山下 「もう1つくらい音入れとくか、みたいな感じ(笑)」

――そういうお話を伺っていると、INOYAMALANDはやっぱりパンク以降の音楽なんだな、って感じます。なんとなく、John Lydonが密かにジャーマン・ロックを聴いていた、みたいな話に近い気がするんですよ。
井上 「ああ~(笑)」
山下 「そうかもしれない。EnoがROXY MUSICをやりながら、実験的なことをやるっていうのも同じだしね。両方ともEnoなわけじゃないですか」

――そうですよね。
山下 「今、急に思い出した。僕たち2人ともFripp & Enoの“(No Pussyfooting)”や“Evening Star”(1975)から影響受けてるんだけど、ある日、ラジオのロック専門音楽番組で、短い最新ニュースみたいなコーナーでね、こういうニュースが流れたんですよ。Fripp & Enoの次のアルバムを、BEE GEESがプロデュースするっていう」
井上 「えっ……(絶句)、ごめん、続けて」
山下 「Fripp & Enoのアルバムを、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の“Stayin’ Alive”(1977)が大ヒットしたBEE GEESがプロデュースする。ガセネタだったんだけどさ(笑)、それを聞いた瞬間に、自分の中にひとつイメージができたのね。INOYAMALANDの音楽を、例えばMick Jaggerがプロデュースする。GRAND FUNKがプロデュースする。そうしたらどうなるか。そういうことを考え出すと、もう、何をやってもいいわけじゃないですか。良い意味でね。だから、そのガセネタはそういう意識として、すごく心に残ってる。実現したらおもしろい話だったんだけど(笑)」
井上 「想像つかないよね(笑)」
山下 「でしょ?そのとき僕はね、身体の底からジ~ンときたわけ。すごいな!と思って(笑)。すごくメジャーなものと、僕らがやっている音楽が、実はすごく近いところにあるんじゃないか?って思ったり。そういう感覚はずっと、井上くんと始めてから今まで変わってないんですよ。だから、決してマイナーなジャンルにいるとは思ってないし、特殊なことをやっているとは思ってない。メジャーっていう言い方はおかしいけど、非常に分かり易いことをやっているのに、気がついてもらえてないんじゃないかな?っていう(笑)」
井上 「その感覚は、1970年代の前半くらいかな、“四畳半フォーク”っていう言葉が出てきた頃からあったかも」

INOYAMALAND

――四畳半フォークですか……。
井上 「うん。それまで、音楽をやる人っていうのは、特別なメディアに出て、特別にレコードを出したりする、特別な人たちだったんだけど、それを崩してくれたのが四畳半フォークだった。歌謡曲の世界とか、例えば音楽をやりたかったらナベプロに入らなきゃいけない、みたいな敷居が頑なにあったものを、路上や小さなお店で、ギター1本だけで自分を表現できるんだよ、って示してくれた最初の人たち。高田 渡とか、加川 良とかね。僕自身は音楽的にはのめりこまなくて、聴いてる音楽の方向性は全然違うんだけど、高校時代は周りの同級生がこぞって四畳半フォークの虜になってたし、音楽って実は、自分自身にすごく近いところから発信できるんだ、しちゃってもいいんだ、っていう感覚は、四畳半フォークから学んだところが大きい」
山下 「そうそう。PINK FLOYDの初来日(1971)を箱根アフロディーテに観に行った翌日に、中津川まで“フォークジャンボリー”を観に行く、みたいな」
井上 「僕はそういうギャップを同時にたのしんでた」
山下 「だから、シンセで四畳半フォークをやっているのがINOYAMALANDっていう感じ」
井上 「そういう感じは今もあるよね」
山下 「うん。非常に個人的な世界、まあ日記のようなものを、シンセで作るっていうのがINOYAMALANDらしさなんだよ。井上くんとセッションしていると、Robert Wyattの話をしているときもあるし、高田 渡の話をしているときもあるわけ。演奏でね」
井上 「世が世だったらURCからデビューするのが夢だったりしたかもしれない(笑)」

――四畳半フォークって、パンクもそうですけど、DTMとか、90年代以降のベッドルーム・テクノみたいな感じだったんですね。
山下 「そうそう!まさにそういう感じ」

――90年代、チルアウト、ベッドルーム・テクノ以降の“アンビエント”では、旋律を排した作品が多く発表されましたが、そういうものからのフィードバックはなかったのでしょうか。
山下 「ああ。なるほどね。ところがね、私事だけど、『DANZINDAN-POJIDON』を録った1983年頃に音楽への興味がなくなっちゃったから、90年代の音楽って全く聴いてないんですよ」
井上 「ヒカシューも辞めてね」
山下 「うん。僕は、60年代から70年代にかけての流れに影響を受けて音楽を始めたんだけど、80年代から世の中ではソフト&メロウとか、フュージョンとか、まあ僕から見ればすごく体制寄りの音楽が色々出てくるわけ」
井上 「でも、山下さんが音楽に興味がなくなっちゃったとはいえ、ずっと音楽の仕事は2人でやってたんです」
山下 「うん。たまたま仕事があったから、環境音楽の。だから井上くんの家で曲を作るっていう作業はずっと続けてたの」

――ああ、もう、“作業”という感じで。
山下 「そう。2ndを出したいっていう気持ちはあったから、合間に作ってはいたの。でも、仕事で作るから多少意欲はあったにせよ、そんなに積極的じゃなくてね。井上くんに任せきりで、僕はちょっとポロポロっと弾いて、後は井上くんよろしくね、みたいな」
井上 「うん、そのポロポロをどう組み立てるか?っていうのを毎回やってた。その集積が、1997年の2nd。あれは、色んなところからいただいた環境音楽の仕事で録り溜めた曲を入れたんですよ」

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INOYAMALAND ‘INOYAMALAND

――“仕事”としての作曲活動というのは、どのような経緯で始まったのでしょうか。
山下 「1988年にSound Process Designから“なら・シルクロード博覧会”(奈良)の音楽制作の話が来たのが最初で、それからですね」

――具体的に、仕事はどういう感じで進行するんですか?
井上 「まず会場や現場に行って、まだコンクリ打ちっぱなしみたいなところで1日中、色々リサーチするんですよ」

――そんな段階から取り掛かるんですね。
井上 「そうです。このホールだったら残響はどれくらいだろう?とか、音の減衰の感じをチェックしたり。そういうことをしながら現場を回って。戻ってきてミーティングをしてから曲を作るんです」

――『Music for Myxomycetes(変形菌のための音楽)』も、クライアントワークと言えばクライアントワークとして作られたものなんですよね?
山下 「僕が音楽への興味を失っていた頃、音楽から一番遠そうなものに興味が出てきちゃったんですよ。博物学だったりとか、学問の世界に入っちゃう。学者とかっていうのは、ミュージシャンとは一番遠いところにいると思って。南方熊楠を知ったのが大きかったんだけど、熊楠が研究していた粘菌のことを調べていたら、日本に粘菌を研究する会があるのを知ったんですよ。“日本変形菌研究会”っていうアカデミックな会。そこにいる人たちは音楽から一番遠いところにいるに違いないから、入会しちゃおうと思ってさ。粘菌を見ていれば、自然の中だし、スタジオでもなんでもないしさ。それでその研究会に入ったんですよ」

――本当に入会したんですか(笑)。
山下 「素人でも入れてくれるって言うから(笑)。それで、会報なんかが送られてくるようになったんですけど、ある日、ある会員の方からの手紙がうちに届くんですよ。“会員名簿の中に名前を見かけたんだけども、私が大変好きなグループのメンバーと同じ名前だ”って」